「パラリンピック Paralympics」

義体技術の普及は、さまざまな分野に思わぬ波及効果を及ぼした。そのなかでも、最も露骨に影響を受けたもののうちの1つに、スポーツが挙げられる。通常のマンパワーをはるかに超えた身体能力の実現は、必然的にスポーツの変質をも意味したからである。

特に政治的意味合いとして特筆すべきだったのは、パラリンピックにおける各種競技の記録が著しく向上し、時にはオリンピックにおける同種競技の記録をも上回った、という点である。というのも、過度の情報化と経済流通が国境を有名無実化していくなかで、また、先進国同士の大戦や冷戦構造も過去のものとなった時代において、仮想的にせよ、国民国家同士が自らの “想像の共同体(アンダーソン)”の威信を賭けて戦うというパラリンピックのナショナリスティックな側面における需要は、各国間において確実に増大していたからである。

むろんながら問題もあった。いったんは、どの程度肉体的に改造を受けている人間であるかによって、出場に対する資格や、競技に対する級が細かく定められたが、あまりに細分化したパラリンピック競技は、スポーツの純然たる興奮を減殺してしまったことも事実であった。一方で、機械的部位に100%頼らない生身の身体のみを囲い込むようにして集めて行われるオリンピックも、もはや繰り返されるためだけの伝統行事に成り下がっていった。かくしてスポーツ全般に、政治の匂いが、より一層色濃く立ち込めるようになったのである。